ハシグチカンジの枝葉末節

某ブランドの京都アトリエショップに大体いるメガネです、以前は御所南Dewey&二条木屋町UNITでした。

夏の終わりを感じる頃、無駄話を。

こんばんは。

 

皆さんは日々の暮らしの中で知らず知らずのうちにしている事といえば何でしょ?

僕の場合、よく奥さんに言われるのが、表情のベースが不機嫌である、ということ笑。

何もせずにいると、チビは大概「なあなあお母さん、かんじー(僕のこと)怒ってる?」と口パクで尋ねている様子、そろそろ慣れろ笑。

 

まあ、、よっぽど面白くなさそうな顔をしているのでしょうね、お店にいる時は一応仕事モードですので多少口角が上がって目尻が柔らかいのでしょうが、スイッチオフで表情筋を解放すると怒り顔になるのでしょうね。とはいえそれなりに脳は動いております、結構いつも考え事をしている、むしろ考え事をするのが趣味みたいな部分もある。

その考え事も、しょうの無いことからな何の得にもならない壮大なことまで、でもこれって皆さんもそうじゃないですか?

 

例えばTVのバラエティ番組がだらっと流れている時、これがまあ感情ゼロの顔つきなんだそうです笑。その時に考えている事といえば、「どれみても金と食い物と美容と動物やん。他にやることないんかいな、とろとろ〜・柔らか〜・プルプル〜・ふわふわ〜、ゴージャス〜、全部これで済むやんけ、そのうち日本語消えるわ。」とか笑。

昨日考えたことといえば、「何故う◯ちは臭いのかなあ、あれを臭いと感じるように設計されてるからだろうし、良い匂いと感じたら何がマズい?。クサヤとか納豆とか紙一重(人によっては越えてる)ものとかウイスキーとかの熟成系、香木や動物系の香水だってどうなのよ?」ということ等々。

最近考えていためんどくさい系の話といえば、「"時は金なり"というけど、そりゃそうよね、どっちも人間が考えただけの概念だし。金は物の代わりの価値を想像させるポジションでスタートして、現在お金ですら形がなくなっている。時間が大切というけれど、その物差しで動くのは人間だけだしそれも形の見えないもので、物理の方程式から素粒子の計算に至ると、時間の単位(t)が消えて無くなる。地球上に無い架空の存在が時間とお金、それに振り回されるのが人間社会で、それがいやでも人間である限り無理。どうやったら人間やめられるんやろ?」とか。これは悲観しているわけではなくて、考え事をして想像を膨らませているだけです、まあこんな風に考えることにしても妄想の中の幻想なので空虚です。

 

そうやって考えると最初に言ってた美容もアンチエイジングが主体ですから、結局金と時間の作用を測るグラフになるわけで、やはり人間は人間が長年かけて作った妄想が大好きなのです笑。

 

考え事をしていると、ほとんどの事柄がこんな感じの答えにならない着地(すらしてませんが)点に至るのです。そこで思い出すのが"唯識"という思想。ご存知の方もいらっしゃるかと思いますが、これは大乗仏教の考え方の中の1つで、瑜伽行唯識学派(ヨーガチャーラ)が唱えた教え。

学生の頃はこれを考えることが本分でした。この世界は一人一人のイメージにしか過ぎない、目に見えている物の正体は空虚で、突き詰めるとこの世界は"無"でしか無い。その"無"を作り出すものすら存在する、あ〜も〜どうしたら良いのよ〜??と、延々考え続けるのです、もはや厨二病であると思ってます。この説明ではちょっと乱暴すぎますよね笑。

 

先ず人間の感覚には眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識がある、これは所謂"五感"と言い換えても良さそうです、西洋の場合この先は"第六感"となるわけですが、大乗仏教の場合まだ3つあります。6つ目が"意識"、普段我々が使っている意識と同じだと思って差し支えないと思います。ここまで6つが自分で感じられる"識"ということ。

その奥に"無意識"が潜在しているのですが、それも2段階になっておりまして、7つめに"末那識"が登場。寝ている間は消えているのですが、活動を始めると自分のことばかり考える気持ちがガサガサと動き始めるということらしいです。そして、その先の最も奥深くに"阿頼耶識"がドンとあぐらをかいてます、これが根本的な黒幕、正体です。こいつがせっせと前の7つを(自分&他者)コネコネして形成し、世界を構成している。

 

いや〜、訳分かんないですよね笑。ですがざっくり言えば、末那識のみに身を置く(寝ている)状態を永遠に続けるのが死であり、それを悟りの境地(涅槃)とするのが仏教の考え方、だから葬式をお寺でする、と思えば何となく腑に落ちるでしょ。「おじいちゃん、この世で生きる上で色んなしがらみがあって辛かったでしょうけれど、もうそこから解脱したんですよね、もう悟ったパイセンです、マジすごいっす!」ということで線香を焚いて手を合わせるわけです。

 

脱線しました、これ脱線なんです、ここで終わると唯識じゃない笑。

世の中は個体(個人)が構成したもの、人も動物の水木土も金も、那由他無量大数の存在ごとの主観によってでしかない。ということは客観ということが有り得ない。その個体は全て生まれて滅んで移ろい続ける(無常)、結局実体をキープし続けるものなんでこの世にはない、この世ですら無い。これがよく聞く"色即是空"ですね。

しかし、、、"空"ですら存在してしまう空っぽという事象がありますので。その先にある"無"にしか何にも無いとしか言いようがない。しかしながら無ですら対極に"有"が存在します、その有の発生原因は・・・心?、心の正体は、、、識??

あれ??元に戻ったヨ。

 

厨二病っぽいでしょ?、実はまだ阿頼耶識の奥に"種子(しゅうじ)"というカテゴリーが出てくるのですが、もはや説明が出来ているのか何だかわけわからなくなってますので、もうギブアップ。

そして最後に出てきた"心"、これだけが形として存在するということになるのですが、それも空なんだよと考え、さらに「法(自然の摂理)だって空だぜ?。ぜ〜んぶ空で、我空法空なんだぜ、どうだい??」なんてことも、大乗仏教には言われちゃうのです。

 

ほんとわけわからん、何を言いたくてこの話を始めたのかも分からんです。

あ、着地点の無いことを考えると思い出す話でしたね、見事に着地点見失ってるでしょ??笑。

 

まあ真実が1つならば、いろんなことがこんなに複雑にならないですよね。

何にせよ、こういう仏教の教えも各時代の社会情勢に合わせて変化して宗派の分裂を繰り返しているわけですから、宗教思想だって流行り物です。そういう意味では洋服の好みと一緒、見る角度が変われば「何?地味、だっさ。」と、Deweyの商品を見て思う人もいるわけです。アメカジという宗教の中でも色んな宗派があるわけです。

 

答えなんて出ないですよね〜ほんと。仕事でも人間関係でも、何でもかんでも答えを探すけどそんな物は無い、探し続けるのが答え。

インスタなんかでも「これが正解!」なんて具合の商品紹介やコーディネイト例をよく見ますが、あれを言える根性が本当に欲しい!!!!笑。

 

日々修行です。

 

子供の頃から剣道のお師匠に「真ん中真っ直ぐでドンっと面打ったら良い、真っ直ぐ入って振りかぶってどん!!」ばかり言われました、テクニカルなことが出来ずに大人になりました。なのでそれが影響して不器用な営業スタイルのお店を作ってしまいます。と、ヒトのせいにして話を終わらせようと思います笑(ほんとはこの教えのおかげで今もあると思ってます)。

 

あ、真実がありました!!

チノパンは正義です!!!!

 

お後がよろしいような体で、また次回、、、笑。