ハシグチカンジの枝葉末節

某ブランドの京都アトリエショップに大体いるメガネです、以前は御所南Dewey&二条木屋町UNITでした。

意と識。

こんばんは。

近頃探し物をしていて見つかりにくいことが多い。

直近の話だと、、そうですね、インスタでトロピカルウールのJKTに白のコットンパンツと革靴をという写真を挙げようと思ったら定番チノスラックスのキナリがいくら探しても見つからない、諦めて同じ素材の5ポケットで撮りました。このパンツ、実は半年以上探していたのですが笑、最近相方が「これ仕事で要らないんですか?家着のカゴから出てきましたよ?」と、もちろん探していない場所。

はたまた、使わずにしまっていたボトルケージを夏になって折り畳み自転車に付けようと(これも最近個人アカウントのインスタにアップしてますが)探すのですが出てこない、自宅の自室か屋根裏の自転車パーツを入れている缶、若しくはすぐに使う自転車パーツの箱の中だと思い、3度4度と往復するが全く見当たらない。ぼーっとしている時に天啓のように"ひょっとしてDeweyに持っていったっけ??"と思い付き、翌日店奥の箱に手を突っ込むと即座に指に当たる笑。

1年前の引っ越しによる処分したorしないを記憶できてないんですよね、もちろん加齢の所為でもあるでしょう。残ってるならまだしも、あ〜処分してしまったか〜なんて物もそれなりにある。

奇しくも先日実家の父がそんな話を、自分はいわゆる"断捨離"というのをしないぞというのです。しかしこれは少々特殊なケースだと思うのですが、、、勤めていた大学の100年史の編纂で卒業生に関するデータが少なすぎる、残ってるのは出入りや成績くらいで、もっと彩のあるところが必要で少しあるものでなんとかしなければならなかった。だから一見無駄に見える物も必ず必要な時があり、それを裁定するのは自分ではないと。

まあそれがいわゆる断捨離と同じラインなのかどうかと言いたくなるところもあるのですが笑、ある人から見ればゴミの山でも角度を変えると宝の山なんてことも往々にしてあるわけですよね。

ゴミの山なんて比喩を使った後に言うのもアレなのですが、、、我がPt.Alfredの恵比寿のお店はまさに宝探し感のある店で、山のようにあるチノパンはもちろん、前に欲しかったヤツがある!という洋服も掘り出せたり。それだけではなく創刊当時からあるファッション誌やその他のアーカイブなんかもゴロゴロ出てくる。

 

そんなPt.Alfredの関西支部であるDewey(a.k.a UNIT)ですが、ミニマリストに合う商品の店と言われることもあります、恵比寿のお師匠と真逆の評価です笑。やってるボクはと言いますと、収集しているものがある訳でもなくテキパキ処分するタイプでもない。まあ、、、普通です、ただ洋服屋として考えると保有している洋服の量は多くないと思います、ぼくの癖といえば同じものを多色買いするくらいでしょうか。ブーツ3色とか、ちょっと違いますが気に入ったスニーカーを潰れた時のために2足程ストックも同時購入とか。ある意味お店のラインナップにその性質が現れているようにも思います、多色買いを勧めるお店笑。そんな空気感がミニマリストやノームコア(最早死語でしょうか)に合うと言われるのかもしれませんが、それを能動的に考えたことはありません、断捨離も然り。

Quoraなんかを眺めているとミニマリストに対して言及している質疑が散見されます。イメージ的には自分が必要だと思ったものだけを持つ、それが100円でも100万円でも同列の扱い。めちゃめちゃ乱暴にいえばそんな感じなのかと(細かいところはちょっとおいといて)。それもすごく分かる表現なのですが、"これだけあれば"という思いに至ったことはありません。"これだけあれば"を目指している過程で雪だるま式に物が増える経験はよくしますし、減らした増えた、また減らしてまた増えたの繰り返し笑。それと共に、何十年か変わらず好きな物事に対しての"これだけあれば"という結果論的立場、これはいくつか見つけられているかも知れません。

 

そういうのを考えていると養老孟司氏のおっしゃっている意識と自然の関係性を思い出します、自然とは人間の意識が介入されていない物という(と代弁する形になって良いのかわかりませんが)在り方であると。都会と森の参勤交代を提唱してらっしゃいますが、自然なので林じゃだめで森なんですよね。都会にあるものは全て人間の意識によってそこに配置されている、なので木があろうと自然とは言えない訳ですね。その予定調和を損なう物が現れると人間は嫌悪感や恐怖を覚える、虫や台風は想定外の存在。しかしそれは自然に在る&生じる物であり人間もその循環の中にある存在、なので人間が勝手に意識して対自然なんて思っていることが脆い事柄である。そうなると、ミニマリズムって不自然の権化のような考え方ですよね、主義とは人間の意識の塊ですからゴリゴリです笑。

現在流行中の疫病(以前の記事でコロナという単語は今後使わないと言ってしまった物だからこんなややこしいおっさん口調笑)のこともそうですね、意識下に無い想定外の事にも関わらず、現代人らしくコントロールしようとする、世界中ばったばた。人間の細胞もヴィールス由来が見受けられるそうですね、人間の存在や発展も想定外。というか地球は意識もしないし発展しようとも思っていない。

この意識と"意"と"識"というやつに人間は大昔から悩まされてるようですね、仏教哲学に於いても"八識"という考え方がありまして、結果なんにも無いところに行き着き、でもなんにもない所から全てはスタートしているよね、と堂々巡ります。ある意味意識というのは人間の前頭葉が肥大化した産物で特性なのかも知れませんね。

 

そこでDeweyを思い返すと、ラインナップはミニマルに見えるのかも知れませんがボク自身追い求めた訳ではなく結果的に残ったスタイル、ボクの経験から選択して残したという意味合いでは意識的なのですがそれ以外を排除するという感覚はありません。なんというか、、ボクの中で存在感が変わっていない物をお勧めしているということでしょうか。なんとなくダブルスタンダードな気がしますが、ボク自身正解正義はわかりませんし、結構ダブルスタンダードで日々暮らしてます笑。まあ正解や正義も人間の意識下にある物ですね。

 

こういうと厭世の徒を気取るようですし、スローライフを謳うような表現になるのですが、日々石臼を引くように仕事が出来ればなあと思います。

石臼を引いて粉を作るのは重いし効率が悪い、なので機械でバンバン作った方が沢山作れるし時間も出来る。その余った時間で他の作業が出来る、発展する。大正解ですよね、現代人ですから。しかしながら大きく機械を作るコストは大きい、動かし続けるには電気や油を使い続けるしメンテナンスも必要、そのランニングコストを獲得するのに仕事を増やして結局余った時間を取られる。そんな循環になるとも思えますし、その循環の中で皆生きてます。

でも石臼が良いんですよね、石臼で作った粉をオール電化で調理しても良いわけですし、沢山作れと言われたら汗かいていつもより早く回しますから笑。

自転車を仕事にしている友人がよく言っています、草鞋を編むようにホイールを組むと。手作業でフレームを組んでるビルダーさんも手作業だから出来ることがあるとも言います。それをなるほどかっこいいと思いますし、ブイーンってドリルでホール組んでる工場を見てもすごいと思うし、オイルをかけながら切削してる機械を見てワクワクします。

多分ぼくはその中間の感覚にいると思います、なんせダブルスタンダードの意識の持ち主なので笑。

 

だけど、石臼を回すように日々暮らしてゆきたいなあと思ってしまいます。

物が見つからない話だったのにな〜笑、でも見つからないというのはとてもロマンチックなことなのかも知れませんね。

 

皆さんにあう洋服を見つけにDeweyに来てください、見つかるまで来続けてください、でも物事に着地点はないのでず〜っと来てくださいね笑笑。